※この記事の内容は3か月前考えた内容であり、メモの部分は書式が違っています。
以前の「アイデンティティについて - 物想う草々」の続きで考えたことを、覚書の程度として書いていこうと思う。これは6月25日~6月28日ぐらいにかけて、お昼休みの間に考えたこと。
「将来なにになりたいか」という質問について、前回は「なぜ職業名をみな答えるのか?」という疑問から考えていた。今回は、その続き。
10歳20歳の人が考える「将来何になりたいか」ということについては、一種の「目標」である。
その目標設定の際には、目標のパターンは、以下の3パターンが考えられる。 1、主体的な目標 (例:人を助ける人) 2、受動的目標 (例:人に愛される人、人に尊敬される人) 3、形容的 (例:お金持ち、クールな人、権力を持っている人、等) 大方の、「将来何になりたいか」、は、次のように名詞で表される。
つまり、警察官、スポーツ選手、医者、プロ棋士。 アイデンティティについて、でも書いたが、人はその胸の奥底で、どこか自分に「名」を与えたいのではないか。 何者でもない。者から、何かへ。 また、これも前回書いたが、それらは、行動の指針にもなってくれる。 「〜として」の「として」の前の部分に、名前がくるからである。
そうすれば、例えば医者であれば、"「医者として」普段から自己研鑽に努める(のは当たり前)"、と言ったようなことが成立する(こういう話も作り話ではよく聞く。「医者として当然です」など。)
これは「男として~」「社会人として~」。「〇〇家の人間として~」「日本人として~」なんでもいいのである。どこかに所属していることや、職業名、あるいは名詞が、その人のアイデンティティの拠り所となっているのではないか。
どこかに所属していることがその人のアイデンティティになり得たり、「なにか」になることが(その多くが前回も書いた通り職業名である)、その人にとってのアイデンティティになるのではないか。
副次的に、それらは先人もいるため、自身の行動の指針(の教示)も得やすい。(「社会人であれば、このようなときに、どう行動すべきだろうか?と悩むのは、まさにこの一種である) しかし、上に書いたように、特に形容的な人は、ものすごくそれが維持するのが難しい。なぜならば抽象的な言葉は、その意味がどう言うことなのかを、自分の頭で考える必要があるからである。
例えば、「やさしい人」になりたい、と思ったとする。しかし、「やさしさ」とはなんなのか、ということは、誰にも教えてもらうこともなく、「自分で」考えなければならない。しかし、日本人はインプットは得意でも考えることは不得意である。(これは義務教育課程によるものでもあるのかもしれない)
それゆえ、「やさしさ」を自分で考え、その「やさしさ」というふんわりぼんやりしたものを「維持」し続ける、し続けようとするのは、かなり困難なことである。ある事柄、出来事に遭遇した時、どう言う行動を取るのが、「やさしい人」なのか…。常に考えなければならないし、「やさしい人」でいようとするには、それを維持し続けようとすることである。常に、「今、自分はやさしい人なのか?」ということを、振り返り、反省しなければならない。(このあたりは『鬼滅の刃』で、宇随天元がお館様から言われた生き方に似ている)
このように、形容的で抽象的な人を目標にすることは非常に難しいことなので、一般的には、名詞的な目標が掲げられやすいのかもしれない。 そして、今の時代は、人は自分に名を欲する時代なのかもしれない。名は、これらのことを考えずに、自分にアイデンティティを与えてくれ、また、自分の行動に迷いが生じたときや、自身が持てなくなった時、揺らいできたときに、「こうすべき」あるいは「こうする」といった形で、指針を与えてくれるものだからである。
それが、悪い事、なのではない。アイデンティティは一種の生きる指針を与えてくれる。迷わない。自分の行動に迷いがない。自分は正しい事をしている、そうやって、自分自身を支え、支えを欲しがることは自然といえば自然である。上のように「じゃあやさしさって?」「じゃあ強さって?」と、考えなくてもよい。
しかし、本来ならば、そういったことは、なくてもよいのである。アフリカで生まれたキリンやシマウマと同じ、人はこの世に生まれ落ちてきた。そこに、意味などはなく、本来であれば、アイデンティティというものよりも、本来の、ありのままの自分でよいのである。しかし、人間は社会の中で生きている。社会の中でありのままの自分で居続けることが、現在では難しくなっている。不安もある。迷いが生じる。大都会の中にほっぽり出された自分。何者でもない自分。都会のコンクリートの住居の中に佇むことと、アフリカの草原で佇むことは似ている。どこでもない場所。自由だが、誰も助けてくれない。アフリカの草原ならばともかく、都会であれば、動物的にも不自然な場所。どこにも居場所がない。ありのままの自分。裸になれば、すぐに通報され、警察が飛んでくるだろう。それが社会である。しがらみがあり、ルールがあり、規則がある。
何もなく、着るものもなく生まれた赤ん坊が、社会的に生まれたことにより、アイデンティティを社会の中で求め、自分の拠り所とするのは、ある意味自然なことなのかもしれない。本来はそんなものが必要なく、ありのままでいいのだが、それでは、いろいろと不安もあるからだ。ありのままには、不安や怖さがつきまとうものなのである。(このあたりもまだ書ける余地は残されている。ハイデガーをはじめ、昨今のCM、LGBTの流れなど)
昨今、いろいろなCMが流れている。「自分らしさ」が声高に叫ばれている今、アイデンティティの問題が、生きる上で重要な問題になっているのかもしれない。
追記:また、今、自分がこう考えていること自体が、俺が自身のアイデンティティについて、考え、求めている証拠なのだろうと思う。
自分に影響を与えた映像作品、物
『LIFELL CM』
歌詞
しなきゃなんて ないさ
しなきゃなんて うそさ
あらゆるひとが らしくいきていいのさ
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
しなきゃなんて ないさ
しなきゃなんて うそさ
歌詞
アイデンティティがない 生まれない らららら
アイデンティティがない 生まれない らららら
好きな服はなんですか?好きな本は?好きな食べ物は何?
そう そんな物差しを持ち合わせてる僕は凡人だ
映し鏡 ショーウインドー 隣の人と自分を見比べる
そう それが真っ当と思い込んで生きてた
どうして 今になって 今になって そう僕は考えたんだろう?
どうして まだ見えない 自分らしさってやつに 朝は来るのか?
アイデンティティがない 生まれない らららら
アイデンティティがない 生まれない らららら
風を待った女の子 濡れたシャツは今朝の雨のせいです
そう 過去の出来事 あか抜けてない僕の思い出だ
取りこぼした十代の思い出とかを掘り起こして気づいた
これが純粋な自分らしさと気づいた
どうして 時が経って 時が経って そう僕は気がついたんだろう?
どうして 見えなかった自分らしさってやつが 解りはじめた
どうしても叫びたくて 叫びたくて 僕は泣いているんだよ
どうしても気づきたくて 僕は泣いているんだよ
――
アイデンティティとは、一体何から構成されているのだろう? この本が「好き」。この服が「好き」、好き嫌いから構成されるのだろうか。それとも、あるいは肉体だろうか。同じ顔の人は二人といないという――。昔、友達は、究極のアイデンティティとは、肉体以外にはないのかもしれないと言っていた。そうなのか。アイデンティティとは、肉体の、物体の、この世界における座標軸上にある「物」だけなのだろうか。精神上はどうか。アイデンティティは、"そこ"には、存在し得ないのだろうか――?