アイデンティティについて

自己の確立とはどういうものだろう。

 

少し前に気になったことがある。人は「将来何になりたいか」といったときに、大体職業の名前をいう。なぜだろう。例えば何になりたいか、と言われて「幸せな人」と答える人はあまり見ない。子供だからか、幸せとは何かを考えていないからか、あるいは表面的に生きているからか(これは大体そうだが)、人に無意識的に直線的思考が備わっているからか。たいていの場合は「警察官」や「プロ野球選手」などといった、職業名を答える。

 

しかし子供のころは(これは自分の問題でもあるが)、アイデンティティが確立されていない。つまるところこう考える。人は、職業が一つのアイデンティティと無意識的に考えているのではないか。

 

「自分は自分」とはよく言う。しかし、その生き方はかなり敵を作ることにもなるし、それこそ「自分とは何か」をしっかり確立していないと難しい生き方である。「自分とは何か」を見つめることはアイデンティティの確立の一つだが、その作業は自分の嫌な面とも向き合わなければならない、大変しんどい作業である。

 

そんなとき「職業」は、表面的にも、かなり個人に、楽にアイデンティティを与えてくれるものではないだろうか。「法律家として」とか「文字を生業にする人間として」など、自分のアイデンティティをそこ(職業名)に置くことができる。「法律家だからこうする」「プロはこうする」など、自分の行動の指針にもなる。あるいは、指針を「与えてくれる」。

 

昨今話題になるLGBT然り、現代では、個人のアイデンティティが揺らぎがちな、無個性の時代だと思う。会社という「組織」に入り、「立場」に身をゆだねることも、「自分は自分」という生き方を難しくさせるのではないか。上司ー部下の関係。関係性に埋もれると、自分がひどく情けなく思われるときもあるだろうし、立場に甘んじることによって自分を見失うきっかけにもなってしまう。関係性は、立派なアイデンティティの一つにもなりうる。

その関係性に埋もれることにより、本来の自分がわからなくなってしまう。自分のアイデンティティの基盤が揺らいでしまう。

 

こう書いていて、「自分とは何か」をじっくり考えることがアイデンティティの確立には大事なことだと思うが、これをやってこなかった(自分)人もいるのではないか。深く深く自分という深淵を覗き込むことは、しんどいことでもあるし、大変なことであるから。誰もが、「自分の心に素直に生きられる」わけではないと思う。

 

そんなとき、職業名は自分のアイデンティティの確立してくれる。(あるいは「父親」などの役割でも良い)そこに自分を繋ぎとめてくれる。

 昨今話題になる「男らしさ」や「女らしさ」を意識したことがある、とかなんとか、ジェンダーがどうとか、そういった類の話題も、「男らしさ」が一つのアイデンティティ。つまり自分が男であるということが一つのアイデンティティになっているのではないか。しかし社会はそれを求めなくなっている。本人が特段意識しなければ、男であること、女であることも揺らいでしまうのでないか、自分のアイデンティティはそこにあっていいのか。何か違う感覚がある。違和感がある。(それに、それはまた男とは何か、女とは何か、ということも考えなければらならないのである。)

 

関係性ということで思うと、俺は「仕事ができる人間」というものに出会ったことがない。しかし「仕事ができる『風』な人間」には出会ったことがある。「立場が人をつくる」とはよく言う。つまり周りが「仕事ができるに人」と持ち上げることによって、「そういう風潮」ができるのである。また、本人もそれを思い込む。だから相乗効果で自分も周りも、力が合わさって「仕事ができる(ような)人」になっていくのである。

だがこれも前から思っている。「仕事ができる人間」とは何なのか。上の「幸せな人」同様、誰もそんなことは学校で教えてくれないのである。俺はたいていの場合、それは雰囲気で決まることだと思う。ここまで書いていてそんな「仕事ができる人間」というのは、ある種の幻想なのではないかと思う。結局は周りが自分のことをどう思うかも相まって「雰囲気」などでしかないと思う。

 

誰も教えてくれない。だからこそ本屋に行くと大量に「仕事論」や「仕事ができる人がやっていること」など、ふんわりとした、あいまいな概念で誤魔化しているのである。「仕事のできる人がやっていること」は、その著者が考えであろう仕事のできる人を観察あるいは分析なりして「Todoリスト」は書かれている。メモをまず取る(あるいはメモを取らない)、優先順位を決めるetc...、しかし、肝心である「仕事ができる人間とは何か」については、書かれていないのである。

 

書いてみてこう思う。当たり前なのだと。一口に言っても仕事というのは多くの種類があって、外科医などミスが許されない仕事から、プログラマーなど、ミスがあって当然、ミス前提の仕事もある。つまり「仕事ができる」というのは、その仕事の所々によって変わってくるのである。(転職経験がないが、そうではないだろうか?)

 

しかしそうは言っても、たいていの場合、何かしらの「組織」に属しているのが通常ではないだろうか。組織に属していると、何らかの立場、上下関係といったものは生まれやすい。雰囲気や立場がその人をそう行動させる。そういったものは個人をその場に固着させる。先ほども書いたが、仕事ができる風な人はたくさん見る。あるいはそう思い込んでいる人。役職もその人をその立場に固定させてくれ、ある種の肯定感とアイデンティティを与えてくれるのかもしれない。しかしそれはその場を去ったらただの人、いざ付着物を取ってみたらただの人である。そこで人は定年後に思う。「今まで必死に目の前の仕事をやってきた。子育てもやった。親にもなった。そしてもう今は仕事がない。子供も巣立った。俺は何をやったらいいんだろう」と。すべての源泉は、自分の中にこそある。

 

横道に逸れたが、職業が個人にアイデンティティを与えてくれる、というのは、ありえない話、ではないのではないか。非常に楽であるし、考えなくていい。もちろんその上で考えることは山ほどあるのであるが、、、。

 

ちなみに自分の母親の小さいころの夢は「母親になること」だったそうだ。それは、今までもこれからも、充足し続けられるだろう。