『鬼滅の刃が教えてくれた 傷ついたまま生きるためのヒント』要約と感想

名越康文鬼滅の刃が教えてくれた 傷ついたまま生きるためのヒント』の要約と感想を書いていきたいと思う。主に要約を中心とする。したがってあまり思考は入れていない。=書評にすらなっていない。だが文章を書かなくなると筆が鈍るため書いておきたいと思う。また、これを読むことによって鬼滅の刃をさらに楽しめるのではないか、という思いもある。ただ、本書のネタバレになるので、読みたい方はご遠慮願いたい。それでも本書の面白かったところと自分の心に残ったことを書いていくだけだから、その内容の半分も要約はできない。つまり要約ではなく抜き出し程度と思っていただきたい。

 

・「鬼」とはなにか。

 

 

鬼滅の刃に登場する鬼とはなにか。鬼とは、「生殺与奪の権を奪われた者である。」

鬼は、自分の思考か鬼舞辻無惨の名前を口にすると、自身の体が破壊されるという、常に監視され、生殺与奪の権を他人に預けている存在である。

序盤、炭次郎が富岡義勇に言われる台詞がある。「生殺与奪の他人に握らせるな!」。これは鬼殺隊らしい台詞であり、「人間として生きろ」というメッセージである、と名越先生は考えている。鬼というのは自分の命運を無惨に握られている存在である。しかし、人間はそうではない。富岡義勇は炭次郎に、まず人間として生きること、そして人間らしさとはこういうことであるということを間接的に訴えたのではないか。だからこそこのメッセージは、炭次郎単体だけではなく、我々現代人にも向けられたメッセージなのではないか。

現代社会において、鬼とは我々一般人である、ということもできるのではないか。いったいどれだけの人が、自分の命を自立して支え、他人に生殺与奪の権を握らずに生きているだろう。会社、組織、なんらかのところに属し、支配されなければ生活、生命の維持をできていないという点では、現代社会のほとんどの人が、鬼と同義である、ということができる。つまり鬼滅の刃においての鬼は我々自身ともいえるのではないか。何かに管理されているという点において、鬼と現代人の共通する部分があると思う、というところには、「なるほどな」と思いました。

 

 

・躁的防衛と解離

 

鬼滅の刃を見ていればわかるが、鬼も元は人間であり、その多くは悲惨な過去を迎えていることが多い。もちろん鬼殺隊も鬼によって悲惨な過去を持っていることが多く、その多くは怒り、後悔、悲しみ、恨みなどの負のエネルギーであることが多い。では、鬼となった人間、鬼と鬼殺隊では、その違いはどこにあるのか。

本書はここで「躁的防衛」と「解離」という言葉を使っている。

・「躁的防衛」とは、他者を支配することによって己を防御する、という心理状態である。

・「解離」とは、負の感情を自分の内面に抑える、あるいは自分の本心とは逆の感情を表出する、そのことによって己の心を守る、という心理状態である。

 

この「解離」は、本書の帯にある「なぜ炭次郎は、あれほど優しく微笑むことができるのか――」の答えだと思う。「解離」は鬼殺隊に多く見られ、自分が悲しみの感情を持っている時に、敢えて表面上は笑顔にすることにより、自分の心を守っている状態である。これは特に胡蝶しのぶによくみられる。彼女は鬼を見たときに「あらあら。では殺しましょうね」と発言するが、その顔は笑顔である。それはエスカレートし、謝罪しない鬼に対して拷問を課そうとするのだ。しかし表面上は怒りの感情は表れていない。だが、その感情は、炭次郎にはっきりと見破られている。しかし炭次郎も同様に、家族を惨殺され、妹も鬼に変えられるという悲惨な過去を背負いながらも、鬼に対して理解を示し、優しく接する面があります。鬼殺隊は自分の悲しみの心を抑え、隠す心理状態にある。

これを「解離」(自分の本心とは逆の感情を表面に出す)というそうです。

 

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心の状態と顔の表情が一致していない解離状態にある。

 

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胡蝶しのぶ。

 

・「躁的防衛」

 

一方で鬼は躁的防衛の心理状態にある。鬼の人間であった時の過去は、自分の力が及ばなかったり、未熟であった記憶が多い。「あの時は自分には力がなかった。だから寂しい思いをした。しかし、今の自分には力がある。だから、他者をコントロールできる。」「それによって、自分の寂しさを埋めようとしている」。それが鬼である。

鬼は人間だったころのトラウマ、辛い経験、寂しさ、空虚を心に持ち、それを埋めようと行動しますが、実はこのやり方には矛盾がある。なぜなら、自分の力でコントロールした他者は、所詮「人形」と同じであり、自分におべっかを使い、顔色をうかがうばかり、つまり主体性がない。だから、結局は自分の抱える寂しさは埋められない、ということになる。

 

同じ辛い経験を持った鬼と鬼殺隊ですが、その生き方や心の持ち方には上のような違いがある、と読んだ時はなるほどと思いました。

 

・猗窩座と累

 

自分の空虚な心の安定を、どこに求めるのか。猗窩座と累と比較が面白かった。

累も猗窩座も共に無惨のお気に入りとしているが、それは小心者の無惨において非常にわかりやすく、かつ扱いやすいところがあったからだと思う。

累は、自分の心の安定を「家族」によって支えようとする。もちろん本物の家族ではないが、家族に裏切られたと思っていた累にとって、形式的であっても、家族という安定を維持することが、自身の心の安定につながる。

対して、狛治(猗窩座の生前の名前)は生前の恋愛がありながらも、鬼となってからは家族を求めようとはしていない。なぜか? 猗窩座にとってもともと大切なよりどころは師範や師範の娘といった他人ではなく、もともと自分自身の中にあったからなのではないか。

 

狛治は「俺は誰よりも強くなって、一生あなたを守ります」と言っている。これは表面上プロポーズとして成り立ってはいるが、本当に狛治は恋雪のことを理解し、逆に恋雪は伯治のことを理解していたのか。もちろん狛治にとって恋雪は大切な存在ではあった。それは事実なのだろうが、徹頭徹尾、「他人に依存する」ことができない人間だったのではないか。だから、大切な人「守りたい」とは思っても、愛してもらおうという気持ちが出てこない。狛治はもともと生きていく上であまり「他人」を必要としない人間でした。狛治という人間の心の関心は常に「外部」ではなく、「内部」に向いていた。狛治は師匠の技を継ぎ、道場を継ぎ、師範の娘との婚約することになる。それらは不幸な生い立ちの中で、ずっと居場所がなかった狛治のはじめての居場所となる。心の「資材」となった。

 

『つまり、狛治にとって自分が自分として、安心していられる場所は、自分の心の中にあった。これは、累が自分を確立する基盤として、自分の「外側」に家族という関係性を置こうとした点において、非常に対照的です。』

 

『狛治が信じていたのは、他人ではなく、自分の肉体です。自分という存在を支えているのは家族や師範ではなく、自分自身の内側にある。だから猗窩座は、累のように家族のアイデンティティをよりどころにしようとは考えなかった。鬼となったあとに猗窩座がよりどころにしたのは、武術によって磨き抜かれた自分の肉体だったのです。』

 

『どれほど愛した婚約者であっても、猗窩座にとっては「自分が守るべき他人」でしかなかった。だからこそ、炭次郎と富岡義勇の戦いに敗れたとき、猗窩座は(随分前に)「守るべきもの」を失っていた自分に気づき、自分自身を破壊することになるのです』

 

何のために体を鍛えているのか? 大切なものを守るためである。しかし、鬼となった今、守るべき大切なものはなく、ただ「体を鍛える」ことだけが、一人歩きしている。しかし、目的を見失ったことに猗窩座は気づいておらず(普段人間だった時の記憶を忘れている。鬼となってから人間の時の記憶を明確に保持し続けているのは(無惨以外では)黒死牟のみであり、そしてこの点が黒死牟が唯一ほかの上弦の鬼と違う点である)、いわば何のために体を鍛えているのかを忘れた状態のまま、体を鍛えている。目的を見失ったまま体を鍛えている状態が、ずっと続いているのである。だから、自分にはもう守るべきものがない、と気づいた猗窩座は、「じゃあ(そもそも)体を鍛える意味がないやん」となり、それは自分自身の存在する理由がそもそももう無いことを悟るきっかけにもなり、自分自身を破壊する。ということなのかと思いました。

 

 

また、猗窩座のその戦い方に、自分の考えていたことと一緒のことを名越先生が言っておられた。それは「猗窩座は本当に強いのか?」ということである。

猗窩座は煉獄と戦い、結局煉獄の死、猗窩座の逃亡という形で戦いは終わる。俺はこれを見たとき(というかほかの戦いでもそうだが)、鬼は「何度でも体が再生するから

」強いのであって、実力は、実のところ煉獄さんは何度も猗窩座の腕や胴体を斬っており、普通に戦えば当たり前だが鬼殺隊の方が勝っている。しかも、鬼は何百年と生きているのであるから、猗窩座のような純粋に力の向上に執心している者であれば、刀の太刀などかすりもしないで当然なのではないか?

しかし、考えてもみた。もし自分が猗窩座だったら。たぶん、己の肉体の強さに慢心するだろう。自分は強いと思うだろう。もともと武術は、一回性の体、傷ついたり、怪我をしたらもとには戻らない、一回性の体を前提として考えられている。だからこそ相手との間合いを重視し、技や太刀を受け流し、ぎりぎりのところでかわす技術が生まれる。

しかし、何度でも再生できる体だったらどうか?ほとんど痛みを感じないほど瞬時に再生し、傷つかない肉体を持つことになったら? かわす必要がない。避ける必要がない。あったとしても、「多少傷ついても大丈夫」という考えは、常に頭の中にあると思う。そうすれば、武術においては、むしろ「至高の領域」から遠ざかるのではないだろうか。避ける必要のない身体を持ちながら、そういった技をギリギリかわすような鍛錬は、その実力は向上するのだろうか?もしできるのであるとすれば、何百年と生きていたのに、いったい何を鍛錬していたのだろうか?

これと同じことが本書でも述べられていた。

自分がこの戦いを見たときに彷彿としたのは、過去に『ギルティギア ♯R』で、あるコマンドをキャラクター選択前に入力すれば、そのキャラクターが黒キャラ、金キャラになるというものである。ソル=バッドガイであれば、金キャラになればダメージを受けても即座に回復し続ける。さらにいつでもテンションゲージは満タン。常時ドラゴンインストール状態である。そんな状態でプレイしていて、果たして強くなるのか?ゲームは上手くなるのか?キャラクター操作の技術力の向上はあり得るのか?

体験した感じだと、全く向上しなかったと思う。むしろ弱くなった。なにせ技を喰らってもすぐに回復するし、大技をいくらでもゲージを気にせず放てるのだから、ほとんど相手の動きに注目することがない。極端に減る。繊細な動きや間合いの取り方といった戦い方は、このやり方では涵養されない。自分は、煉獄さんと猗窩座の戦いを見てそう思った。

 

 

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猗窩座

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・鬼舞辻無惨とは

 

本書での鬼舞辻無惨の考察を見ていこうと思う。

 

以下要約。

まず、この作品のラスボスである鬼舞辻無惨の「悪」である。多くの作品と同様に、悪には幼児性が備わっている。この作品の中でも鬼の記憶は幼児期の寂しい記憶のままとどまっており、成長していない。つまり、精神は大人になっていない。ただ肉体のみが強化されているのである。悪にはこのような精神面での幼児性がある。と名越先生。

それは例えば、『スター・ウォーズ』の「ダース・ベイダー」にもみられる。彼は一見成熟した大人であるが、しかしその実は、母親を殺されるというトラウマを持った、ごく普通の少年であることが明かされる。そうすると、「悪」といったものが、とたんに「脆弱」に見えてくる。「あの人もかわいそうな人なんだな」という同情のようなものが入ると、悪がひどく弱いものに見える。だから『スター・ウォーズ』の場合、真の悪役はパルパティーンに移行していき、その過去や素顔を明かされることはない。その方が、悪という強大さを演出できないのではないか。つまり、悪というものの本質は、隠蔽されてこそ強大な印象を与える。

 

だから、「悪=幼児性」の法則は、ダース・ベイダーに見られる通り、一般的には『隠されたものでは無ければならない』。しかし本作品では、無惨は「パワハラ会議」と呼ばれる行為のとおり、自身の幼児性を全く隠そうとしない。この点で鬼滅の刃はなかなか新しい視点を持っている。しかし、「悪」の根源性は、幼児性と切り離したところにも存在し得るのではないか?

 

いわゆる「パワハラ会議」において、無惨の小心者というか、疑り深い性格が露わとなる。例えば

1.

「お前は鬼狩りの柱と遭遇した場合、逃亡しようと考えているな?」

「いいえ思っていません!私は貴方のために命を賭けて戦います!」

「お前は私の言うことを否定するのか?」

→惨殺

 

2.

具体的にどれほどの猶予を? お前はどのような役に立てる? 今のお前の力でどれほどのことが出来る?」

「血を!血を分けていただければ」

なぜ私がお前の指図で血を与えねばならんのだ? はなはだ図々しい、身の程をわきまえろ」

→惨殺

 

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パワハラ会議

これは何を言っても無惨の理不尽な言い分により部下である鬼たちが惨殺されるシーンだが、もし無惨が上司だとして、割と小心者、臆病者であるとするならば、こういった「媚びうってくる」者ほど、自身の存在を脅かす脅威となるのではないか、と疑ったのではないか。このセリフの前に、無惨はこの部下の鬼たちに「自分たちの思考は私には読める」と伝えてある。その上でこういった対応をされては、臆病者(と仮定しよう)の無惨の目には、ひどくこの部下たちの言葉は信用できないと映ってのではないか。そういう意味で無惨は臆病者で小心者であり、疑い深い性格なのではないか。

なぜ魘夢は生き残れたのか。魘夢の関心は常に下の者の悲鳴や惨劇であり、いわゆるサイコパス的な性格の持ち主である。だから、(無惨にとっては)この部下は脅威に値しない。例え血を与えて強くしたとしても、この魘夢の関心は常に自分より下の存在に向いている。上司としては、これほど都合のいい部下はいないのである。

 

 

本作品においては、こういった鬼の幼児性に加えて、鬼の弱さについても述べられている。鬼の弱点は太陽である。これが決定的な弱点である。そして、無惨はこの弱さを自分自身理解している。

 

『皆さんももし気が向いたら、鬼舞辻無惨の置かれた運命を、自分の身に起きたこととして想像してみてください。病弱だった少年がある治療を受けて、夜の間は元気に、すごく強くなったけれど、二度と陽の光を浴びることが許されなくなった。他のみんなが「いい天気だね」と日向ぼっこしているような太陽で、あっという間に灰になってしまうような体になってしまった。

 これでは、「強くなった」というよりは「弱くなった」と感じるのが普通の感性ではないでしょうか。鬼舞辻は、自分こそが最強の存在であり、思考の存在だと主張し続ける。しかしその内面では、自分が「最弱」であることを自覚している。「陽の光を浴びれば灰になる」ということそのものは、鬼舞辻以外の鬼も全く同じです。しかし、その脆弱さやもろさを自覚し、劣等感を覚えている鬼は、鬼舞辻以外にはいません。これは非常に巧妙な描き方であると僕は感心します。

 鬼舞辻は「最強」を演じる「最弱」の存在です。そして、鬼舞辻の「悪」は、未熟性よりは「最弱」であることが原動力になっているのではないか。と僕は思うのです』

 

『鬼舞辻の本質は、「陽の光の下に体をさらせない病人」である「弱い自分」です。弱弱しく、太陽の下ではすぐ灰になってしまうもろい存在であること……そうした「自分の弱さ」を自覚しながら、正反対に「自分は強い」ということを強弁し続ける。ここに、他の悪役にはない魅力がある。』

 

(実際に)『鬼舞辻は血を分けて鬼を生み出すとき「これでお前も陽の光の下に出られなくなった。俺の気持ちがわかるだろう?」とは絶対に言いません。「お前は強くなった」「お前は人間を超えた」と言い続けるのです。』

 

鬼舞辻無惨の「悪」の原動力は、他の作品の幼児性と結びついた悪でありながらも、最弱であることが原動力なのではないか? つまり「弱い」ことが「悪」と結びついている…(とするならば、世に悪の根絶は可能なのであろうか?)しかしここに鬼舞辻の魅力がある。

 

 

ここまでだらだらと書いてきたが、これでもまだ本書の一部である。他にも黒死牟ー縁壱ー無惨の三角関係や、悲鳴嶼行冥の考察などは面白かった。しかし、自分が読んで大体面白かったところは上記のとおりである。気になった方はぜひ本書を取ってみてはいかがだろうか。