生の意味について ~三島由紀夫を通じて~


三島由紀夫について、思うこと感じること、弟と話したことをまとめていこうと思う。

一昨年、自分が一人暮らし(完全ではないが)を始めたころ、自分の誕生日に『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を友達と観に行った。

一人暮らしを始めたとき、自分一人の部屋を持った時に、俺は妙な虚無感に襲われた。もともと俺が虚無的な性格だったのかもしれない。

たぶんそれは、今まで俺は家の中であれなんであれ(特にここ数年間)「他人のために」生きてきたのだと思う。今の就職先も、親を安心させるため、親の勧めに従ったところが大きい。つまり、本当に自分がしたいということではなく、ある程度妥協が入っていた。かといって、俺が今勤めている会社以外に(一つしか)内定をもらえなかったことも事実である。自分に自信がなかったことも大きい。何かつらいことがあっても、何かと家族を安心させるためとか言って、自分に言い聞かせ、自分に嘘をついてきたからだろう。そして今、俺は常に、何かしら我慢、それも根本的なところで我慢しながら、生きている気がする。

話を戻したい。そんな俺が急にポツンと一人の空間、時間を持つことになった。生まれて初めて。生きていくということに、強い不安感を覚えた。「何のために生きていくのか」ということを強く意識した。(その答えは今も出ていない、あるいは出ているが、実行に移せていない。それは俺の場合、他人との間に軋轢を生むからである。)


そんな時にちょうど出会ったのが、この映画である。俺は三島由紀夫にすごく自分を重ねた。「自分の生きていく意味」を探し続けた三島由紀夫に、自分を投影した。


今、動画は消えてしまっているのかあまり見つからないが、当時俺はYouTubeで三島の動画を、手当たり次第にというわけではないが(ここが詰めの甘いところである)、観ていた。中でもよかったのがNHKの「戦後史」の特集と、有名な三島のインタビュー動画である。『あの人に会いたい』でも、三島の動画は観ていた。











もちろん、三島由紀夫と我々の生きている時代、受けた教育は違う。三島由紀夫は「自分という「個人」と、全体としての「国家」の運命が、完全に一致した時代」に生きてきた(少なくとも青春時代の多くをそこで過ごした)人間である。だから、自分の生きている意味を、全体的な国家に重ねて考えるところは無理のないところだと思う。一言で言えば「昔の人」であるが、この分断された時代に生きてきた一種の悲劇、ここに三島の虚無の正体があると思う。


個人的に考えてみれば、人生の意味や生きているという意味は、「ない」が答えだと思う。アフリカの大草原で生きているシマウマ、ヌー、ライオン、鳥と同じく、人間も動物だからである。たまたまこの世に生まれ落ちた。それが事実である。そこに「意味」を付けようとすれば、自分の生きている意味を見つけよう、あるいは見つけたいのであれば、それは、あるいは社会の中で、「自分で見つけなければならない」。三島も、自分の生きている意味を、戦後社会の中で見つけようとした。いわば自分の居場所を見つけたいと思った。しかしそれが叶わなかった。そうした人間像を、三島という人生から観れる気がする。そこに、三島の悲哀があり、俺自身の悲しみがある。


時代を見つめてみると、戦前という時代は、「天皇」が個人に役割を与えてくれていた。つまり自分が生きる意味を、天皇が、日本が与えてくれていた。(三島のいう「天皇」とは、昭和天皇個人を指すのではなく、個人的な解釈としては、日本という、伝統文化、過去から脈々と受け継がれる日本の全てを、天皇と表している気がする。)その時代に生まれ、物心ついたときからそういう教育を受け、そういう価値観を持って、三島は育つ。「(お国のために)戦争に行って、死んで来い」それが自分の運命であり、生きる理由であり、生きる意味。そこには、日本という全体の一部となって生きる、高揚感、連帯感、そして「死」を前提とした「生」への強い意識。終わりが(それも遠くない)見えているからこそ輝く生。それがある。時代も周りもそういう雰囲気で、そういう空気で、そういう価値観に包まれていた。

しかし戦後という時代は、個人で自分の人生を掴まなければならなくなった。今まで全体として国のためにあった自分の命は、急に野に放たれ「自分の人生を生きていってください」というふうになった。今まで(20歳まで)そういうことを考え事のなかった三島は、急に戸惑ったのではないか。ここに、自分と重ね合わせるところもある。

三島には、戦後の日本はどう映ったのか。それを考えてみると、人々は人口減少からの焼け野原から戦後復興という波に乗り、経済成長の波で自分たちの生活を豪華に彩るだけの生活を見て、飽き飽きしていたのではないかと思う。そこには確かにレジャー・娯楽・趣味、そういった楽しみがある。しかし自分が「何のために」生きているか、という答えはない。それは、自分で掴まなければならない。三島は、同胞達があれほど命を賭して守った「日本」が、ただレジャーやその場の楽しみ、娯楽を求める大衆社会に嫌気が差していたのではないか。そこには、経済を求める国、金を稼ぐ人々、それを貯めて家を買い、豪遊し、鮨を食う。そこには生活があり、豪華絢爛がある。しかし、三島にとっての重要な生の意味、(何かのためという)大義、時代と一体となった高揚感、死を前提とした緊張感はない。その社会に適合できず、大衆の中で生きていけなかったのではないか。

弟と話していて、最後の駐屯地の三島の演説は、「確認作業」だったのかもしれない、と弟が言っていいた。つまり、もう民主主義の大衆社会の中には、自分が見てきた「日本」はない。それを確認する。大衆という日本の心、それを最後に問うてみる。というよりも、もう答えはわかった上で、確認してみる。そこには「俺は日本のことが好きだけど、もう日本は、俺の方を向いてはくれないよね?」という、三島の失恋のような気持ちがあったような気がします。「そうしたら、もう死ぬしかないな。」と。それこそ、生きていても意味がない。
実際、三島が一番その日本の心を反映しているであろうという自衛隊に「このままでいいのか。(日本という)伝統を守らなければならないのではないか。」といっても、「ぽかーん」とした表情。これを見て、はっきりと三島は「向いてくれていないのだ」と確信したのだと思います。

ここまで書いて、あるいはそれの勝手な三島「押し付け」にも似たものがあるかもしれません。しかし青春時代をどのような時代で生きてきたというのは、人にとって非常に大切なものでありますし、戦前と戦後という二つの時代を生きてきて、あまりにも日本の変わりように、三島は戸惑ったのだと思います。「ここでは生きていけない」あるいは「ここでは自分の生きる意味を見出せない」というのは、仕方のなかったことなのかもしれません。


終わり。