ふと関心を持ったこと。

この間ふと思ったのが、気候や地域性と文学、地政学と文学の関係というのが興味があって、例えば、その地域(海がない、山があるetc…)やその気候の元で育った人間がどんな文章を書くのか、といったことに少し興味がある。

 

例えば日本みたいな四季がある国では「一葉落ちて天下の秋を知る」といった言葉がありますが、ロシア文学を読んでいると、ドストエフスキーとか、プーシキンとか、チェーホフとか、「紅葉が見られて秋が来たな~」とか、そんな文章は書かない。

 

その人その人の個性にも依りますし、自分もまだそんなに読んでないので何とも言えませんが、驚くほど知的な文章が多い。そして人物像とかでも、憶測や推測も含めて人間観察的な文章が多いように思います。これは、多分気候的に、一年の半分くらいを家の中で過ごして、読書や家族との会話が多いのではないか。だから自然と人物描写や心理描写(あの人はおそらくこうだろう、こう思っているに違いない、といったことなども含めて)が多くなるのではないか。「生きてりゃなんとかなるさ!」*1のような楽観主義は、国家的からか、あんまり見られない気がします。(ツルゲーネフなどは会話文が多く、殆ど人間関係の話だったりする)

 

日本文学では、割と「この地域の話だよ」といったものが最初に明確に提示され、会話文も関西弁で書かれる、みたいなこともありますが、米国文学では「この人物は~~訛りで」みたいに、同じ国の人ながらまず相手を訛りで「〇〇出身に違いない」みたいな描写を時折見かける。

 

そして、アメリカ人は同じアメリカ人ながら、例えば昔の文学など東部や西部など、はっきり同国の中でも地域性を意識したりする。それは、日本人の比ではない。「南部の人間にはわからんよ」や「〇〇訛りだなお前。西部じゃ常識なのかい?」など、同国でも殆ど「異国」扱い、異邦人扱いする表現もちらほら見ます。

 

これは日本でも少なからず見られます。閉鎖的な田舎の環境は、訛りもそうだし、「関西人」「関東人」なども結構読後の感想などでも見られる。「不自然な関西弁で気になった」なども、例えば映画のレビューなどでも見られる。アメリカは日本とは比べ物にならないくらい面積が広いので、人の認識がそうなのかもしれない。このあたりは、例えばアメリカの西部劇(『駅馬車』『黄色いリボン』『荒野の用心棒』などを観ればなんとなくわかる。)

 

しかし、(自分がまだ少し読んだ中では)ロシア文学ではあんまりそういう描写は観られない。逆にロシア人は一歩外を出歩けば、共同体意識があまりなく、「隣の人はどんな人なんだろう…」みたいな描写が見られます。フランス文学にもあんまりこういう描写がないなぁ、とか考えています。

 

こういった「お国柄」といった地域性の他に、「これは暖かい気候に住んでいる人間が書いた文章なのか」「これは寒い地域に住んでいる人が書いたのか」といった気候性と、その作品や文章の特徴との関係などに興味・関心を思っている。

 

 

追記

 

地政学的なものはあまり知らないが、全体的な地理的要因による勢力の均衡を考える、というよりかは、人間形成のアイデンティティの一つとして、気候なども関係していると思うからである。

 

安部公房も、「人間は生まれ故郷を去ることはできる。しかし無関係になることはできない。」(『終わりし道の標に』)と書いていて、また『けものたちは故郷をめざす』も衝撃的に良い作品だった。それは個人ー故郷の土地との関係であるし、また巻末でも作者の生い立ちやその時代背景などが書かれているが、「時代」だけでなく「気候」や「地域」に興味があるといったものが、現状面白いなと感じている部分。

*1:横道に逸れるが、『ぼっちざろっく』で主人公の後藤ひとりが作詞をする上で「本当は現状を無責任に肯定する歌詞はあまり好きじゃないんだけど…」と思うところがある。これは自分が学生の14,5年前(今は知らない)によく自分が思っていたことで、読んだ作品数は少ないが、江國香織だったり、重松清だったり、詳しくは忘れたが、不登校、虐待など重いテーマを扱っていながら、最後は「なんとなるさ」といったようなふわっとしたものが多かったよう当時感じていた。