笑いについて

 

 笑いには種類があると思っている。ベルクソンは『笑い』の中において、人がこけるときに笑いが起こる理由を考察している。

 人が視界の右端から左に向かって歩いているとき、途中で思わず石につまずいてこけるとする。この時、人によっては笑いが起きる。これはなぜなのか。と考えたところ、ここには(その笑っている人の中で)「恒常性」と「予測性」が存在しているからではないのか、というのである。

 人が歩みを進める以上、視界の右端から左端までスムーズに移動することが、おおよそ未来に投企する形でイメージされ、予測される。しかし、それが「石の存在」という思わぬ障害によって、その「歩く」という恒常的な形態が突如崩れるのである。この「突如」といったところが「笑い」の契機であるのではないか、とベルクソンは考えた。

 もしこれが、たとえば舞台の台本にあり、演者も視聴者もあらかじめ「こける」という行為を予測し、知っていたとしたらどうだろう。おそらく、笑いは起きないだろう。なぜなら、ここには「恒常性」がなく「突如」といった偶発的で突発的な事象がないからである。

 これがベルクソンの笑いに対する考察の一種だと理解している。

 

これを読んだ自分はなるほどと思った。と同時に、昔から不思議だったことがそうなのかと解けたような感じがした。昔から俺は不思議だった。なぜつまずいてこけた人を、他人は笑うのだろうか。俺であれば「大丈夫か?」と心配するところであるが、他人は笑っているのである。

 

ここで考えたのだが、おそらく自分にとっての「笑い」は、その種類が多岐にわたりその全部を考察しきれていないとはいえ、おそらくこうした「恒常性」や「予測の有無」には依存していないからだろう。上の、例えば「この登場人物はここでこけるんだよな」ということを知っていたとしても、あるいは、知らなかったとしても、「人が石につまずいてこける」ことによっては、自分はその人のことを笑ったりはしない。

 

これがなぜなのか。というと、それは無意識的に自分の中に「世の中のことは複雑で、簡単に予測することはできない」という意識が存在しているからかもしれないし、あるいは自分の中では、笑いというものはもっとその人の意志に基づいた行為によるもので、たとえばその結果がお互いの認識のズレがあるものだったりするもの、という意識があるのかもしれない。

 

おおよそ「石につまずいてこける」ということは、たとえば札幌の雪の街中で滑ってこけるといったことと同義で、いついかなるときも常に起こりうるものであるし、それが起こったとて、することは「笑う」ことではなく「心配する」ことではないかという思いがあるのだと思う。

 

ベネディクトは『菊と刀』の中で、日本文化を「恥の文化」と言った。石につまずいてこけたときに起こる笑いの種類としては「アイツ、つまずいてやがる。馬鹿でー」といったものではないだろうか。しかし、繰り返しになるが、まさにここにポイントがあって、本当に「石につまずくこと=馬鹿なこと」なのだろうか。こういったことを瞬間的に、または無意識的に疑っているのかもしれない。だからこそ、心配するのである。石につまずいてこけること、あるいは雪道を歩いていてこけることは誰にでも起こりえることであるし、その人の自発的な意志からの行為の結果として生じた事象ではない。

 

では、「自発的な意志からの行為の結果として生じた事象」とはどのようなことは、どのようなことか。これが上にも書いた(つまり、繰り返しになるが)認識の問題であって、つまるところその人の中での「常識/非常識」の問題なのだろうと思う。

 

たとえば、次の日が期末テストだとする。テスト期間中は部活動もお休みになり、生徒は勉学に励むのが通常である。この「通常」がいわゆる「常識的なこと」とされているものであって、その時に(あるいはみんなが勉強しているときに)「お前は昨日何時まで勉強してた?」「死ぬほどゲームしてたな」となると「アホやん」となるわけである。ここでいう「アホ」とは、「テストの前日は(誰でも)そのテストの対策をするのが常識であるのに、お前はそこから逸脱している非常識な奴)という意味での「アホ」なのではないか。とすると、ここでの「アホ」というのは、「常識/非常識」(「何が」常識であるか、常識はどう作られるのかといったことはひとまず置いておくとして)の分別の上での、認識のズレの問題であって、その(ゲームをするという)自発的な行為の結果が(たとえば)「40点だった」とする。そうなると、さらに「そらそうや(笑)」となるわけである。後者の面では、やや「自業自得」といった意味合いが含まれると思う。つまるところ、自分は根本的なところで「自己責任論者」であるということができるかもしれない。

 

しかし、こうしたことは置いておいて、笑いにはまだまだ複数の種類があると思っている。たとえば、「伏線の回収」(さっきも言うとったやんwとか(あるいはトートロジー、これはたとえばネットスラングではブロント語などが思い出される。(確定的に明らか、致命的な致命傷、など)「ほんで(さっきお前が言ってた)〇〇なんやろ?」とか)、話術だけでも複数ある。

あるいは、人は、なぜモノマネでも笑うのか。モノマネは「模倣」である。模倣は、ある時には良いものとされる。しかし、なぜ模倣が笑いを誘うのか。

 

そして、笑いによってもたらされる効用はなんなのか。こういったことも、まだまだ考えることができるかもしれない。

 

追記

 

ところで、こういった「笑い」について「考える」ことができる以上、「お笑い論」が生じてくるのも自然なことである。しかし、笑いについての「考え(論)」と、実際にそのことによって笑いが生じるかどうかは別問題である。個人の主観や好みも入ってくるからである。

上のような例で行くと、石につまずいてこけることは「誰でもあることやん」とか「(むしろ)かわいそうに感じる」人にとっては、石につまずいてこけたからといって笑いは生じないのであって、そういった意味で、これらの主観に依るところが大きいものに対して、万人に当てはまるようなお笑い論を打ち立てようとすることは困難ではないかと感じる。従って、お笑いコンテスト(あるいは絵画などの芸術分野でも(もちろん描画の仕方や、黄金比率など人間に広く美を感じさせる美術論などは存在するのだろうが))のように、笑い自体に「点数」をつけるといったことは、非常にナンセンスに思う。

 

追記の追記

 

こうした「主観に依るところが大きいものを(あたかも客観的に判断したように)点数化し、比較判別する(優劣をつける)ことは、ナンセンス」という価値観が自分の中にはある。しかしテレビは大衆的なものであるから、(チャップリンも「すべてのメディアはプロパガンダなのです。恋愛映画は恋愛のプロパガンダ。戦争映画は戦争のプロパガンダ。そして私の映画のようなものは、自由のプロパガンダなのです」と言っていたように)「これが(今)おもしろい! みなさん! これが今の流行りです! これが、今一番、面白いものです!」といったプロパガンダ的にならざるを得ないのは、世の常であるようにも思う。業界や、その中での人間関係のしがらみもあるだろうし、実際のところ、かわいいは作れる、ではないが、笑いといったものは周囲の雰囲気や空気といったもので誘発することができると思う。人間が集まる所には、どうしてもその中で目には見えない空気感のようなものを纏うものである)しかし、そのような「世の常」を目の当たりにしたところで、(そうはいっても)やはりナンセンスだなと感じる。

 

 

追記の追記の追記

 

上の記事を見直して思ったのは、「期末テスト」のたとえ話のところで、「アホ」の意味を考えたときに、それが、その自発的な行為そのものを否定しているわけではない、というところである。「アホやん」の「アホ」は、「ゲームをすること」ではなく、「期末テスト前日であるのにも関わらずゲームをしている」ことに対するものであって、これが非常識と考えられるのではないか。とすると、「常識」がなんであるかという問題については、「状況ー行為」の組み合わせが一つあるのではないかと思った。「期末テストの前日」(状況)において「ゲームを完徹する」(行為)という組み合わせこそが非常識であり、その非常識という認識が笑いを誘発しているのではないか。

 

追記の追記の追記の追記

これは、お笑いの「一つの型」として、いろいろなところで適用できるのではないか。たとえばコント動画などがそうで、たとえば「バイトの面接」などの状況設定下にあって、たとえばいきなりそばを打ち始めたりしたら「いやいやなんでいきなり蕎麦打つねん」というツッコミが可能になるわけである。これは、「状況ー行為」のズレ(=非常識)が、「認識のズレ」(常識/非常識の認識の違いが笑いを生む)という形で笑いを誘発している、お笑いの一つの「型」なのではないだろうか。

 

 

雑感(大学に行くメリット)

大学の効用は、「人には人それぞれの考え」があることを体験することであって、高卒とかはマジで学校教育→いきなり社会。だから、たいていは物も知らないし、「自分とは全く違う考え方をする人間がいる」ということを知らない。だから平気で自分の意に反する相手を批難したりする。

 

別に哲学書を読んでウィトゲンシュタインの思想を人前でペラペラ喋れるようにならなくても、「自分と似た考えや価値観を持つ人もいるけど、世の中にはそうじゃない人もたくさんいる」ということがわかる。そういう本質的なことがわかると、「とりあえず話を最後まで聞く」人間になれる。

 

これがわからないと「えー。ありえなーい。まじやばーい」とか、「あなたの言っていることは間違いです!ムキー」とか言ってすぐに人の言うことを否定したりヒスを起こす人になったりする。

 

大体において、高校生というのは、偏差値も同じところで、頭脳的な水準も同じ、公立学校であれば地域的にも住んでいるところが限定され、大体暖かい気候の場所にいる人、寒いところが出身の人、同じような教育水準、地域、気候が同じところの人間が集まる。

 

そういった環境の中だけでなくても、個人レベルにおいても自分の趣味や話が合う人間と話していればよいのであり、年齢もたかだか2歳ぐらいの上下しかない。

 

ところが、大学に入ると、これが社会人ほどではないものの、一気に広がる。多浪だけでなく、社会人に開かれていれば、一度社会に出てから大学に戻ってきた人ともリアルで話す機会がある。地域も全国レベルになる。

 

授業も、たとえば人文学などのレベルになると、討論という形によって、いろいろな意見や批判をする機会が多くなる。利害関係のある社会に出たら、評価や肩書の違いによって、人の意見を聞く/聞かない、などの判断をされがちであるが(なので、大学生や大学院生の卒業者は、ツイッターなどで時折「自分の興味のある分野を同じように興味のある人たちと討論できたあの環境が一番幸せだった」というような発言を残す)、大学では学生という身分だけで誰でも自分の意見を言うことができ、聞いてもらうことができる。また、自分も違う人の意見を聞き、それに対して疑問を持ったり、反論を述べたりする機会がある。

 

そういったことは、哲学や文学といった違いこそあれ、分野や内容が違っていたとしても、「人の話を最後まで聞く」「それに対して賛成もしくは反対の意見を述べる」「相手のその意見も聞く」といった本質的なことは変わらない。この行為を繰り返すだけでも、大学に行く価値はある。

 

高校生はこういうことをしない。だから、最後まで人の話を聞けなかったり、そもそも聞いてなかったりする。「なんか嫌」という感覚的な意見にとどまったりもするし、感覚的に不快であれば、聞く耳も持たなかったりする。

 

社会に出ても、違う環境、違う世代の人の話を聞く、ということはおおよそほとんどの場合において避けられないだろうと思う。そういったときに「へー。そうなんですね。(でも、俺の場合は違うな)」という、相手と自分を線引きし、かつ、肯定も否定もせず、聞く、という行為ができないように思う。

 

 

雑感

近年のAI技術の発展によって、人々の生活は一つの側面で、便利になり、楽しくもなった。将棋の形成判断は、それまでプロの目でも盤面を眺めてわからなかった形勢が、素人目にも「今はこちらがいい」とはっきりわかるようになった。チャットGPTは、人々の生活に迅速で簡単に、解決策をもたらすようにもなった。

 

その一方で、AI技術の発展により省人化が進んだことも否めないのではないか。それは、少子高齢化や人口減少といった社会の状況に対応するためというものが発端であり、またそれに対応しようとしたものであるが、結果として、本来であれば人間が就きたいと思っていた、あるいて就いていた職業も(例えばモノレールなどの自動運転)、AIの進化によって人間が「仕事」を奪われた状況にもなっているように感じる。

 

それでも、人間にとってすべての仕事が奪われているわけではない。しかし、精神的な仕事(画家や作曲など)もAIに取って代わる日も来るのかもしれない。残された仕事といえば、ごみ清掃員や、宅配など、「AIにはできない」という仕事とされるが、それらは何のスキルも身につかず、文字通り誰でもできる、人同士であっても取って代わられる仕事であり、「ブルジットジョブ」なる言葉も生み出された。

 

そのような仕事観では、人間が自分の存在意義を感じなくくなっているのではないか。もともと「社会の歯車」なのではあるが、「誰でもできる仕事」は「自分でなくてもよい仕事」であり、何の意義も、意味も感じられない。そうすると、自分は無力である、役立たずであるといった無力感を感じやすくなるのではないか。

 

ただでさえ、「やって当たり前」という種類の仕事もある。事務などである。ミスをすれば怒られるが、やって回って当たり前、そのくせ、感謝はされず、誰でもできて、個人的なスキルが身につくわけでもない。

 

どこかの大企業に属したとしても、大きな仕事の、どこかの課の、そのチームの中の、ごく一部の仕事だけ。社会の歯車であることは、同時に、自分が「取って代わられる存在」であり(それが健全にその会社が「会社として」機能している証なのでもあるが)、自分に対して無力感を感じやすくなっているのではないか。

 

こういった「科学技術の発展」と、その社会で生きる「個人の精神状態」には相関関係があると感じる。現代は、科学技術の発展とその省人化により、人の価値が感じにくくなっている、あるいは、自らに対して無力感を感じやすくなっている時代なのかもしれない。

こだわりについて

こだわりは、薬にも毒にもなりうると思う。つまるところ「バランス」であり、人が生きることにおいてこのバランスをうまくとるということは非常に難しいことであるのだが、このこだわりというものがどのようなものなのかということについて、少し書いていきたいと思う。

 

書いていて思うのが、自分の考えている哲学的あるいは思いというのは、明らかに自分を発端としており、自分は時代の中に必然的に生きているのであるから、どうしても現在の時代環境と不可分ではない。そう考えてみると、これから書くことも、現在の世の中の時代や環境といったものが「こうであるから」、あるいは「こう自分自身感じているから」このような思いや考えが浮かんできたにすぎない。

 

「こだわり」と「意志」の違いは自分でも考えたことがあまりないので何とも言えないのだが、ツルゲーネフは『初恋』の中で、その父親を言わしてこう述べている「意志は大事だ。なんなら、自由より大事なくらいだ」(大意)と。

 

良く自己啓発本でも述べられているが「~したい」(願望)ではなく「~する」となったときに意志が生まれる。そういった生は気高く、志といったものが生まれてくるのであるが、同時に困難もつきものである。

 

意志とこだわりの違いをよく考えてないので中途半端になるが、ここでは意志の半分をこだわりとして、現代という時代は、こだわりをすごく簡単に持ちやすい時代になったと思う。

 

あからさまに個別的で、自由主義である。そのため、こだわりといったものを持ちやすい時代になったと思う(その反面、「多様性」が叫ばれるなど、逆に窮屈になっていることも否めない)。数年前、自転車屋をやっている近所の人と話したことがある。その人はその自転車の2代目であり、親父さんの代から知っているのだが、その人が何かの話の拍子に「なんでもこだわらなあかんで」と言っていた。趣味はバイクであり、そのほかにも料理など多趣味であるが、なんでもこだわりがあり、例えばカレーにも加えるスパイスを自前で調達するなど、こだわりを持っているそうである。

 

「そういうものかな」と思ったと同時に、その時自分は、そういった種類のこだわりは、人の生に華を加えるのではないか。と感じた。その証拠は、その人がそのことを話しているときにとても楽しそうということである。

 

一方で、自分が自分に課したこだわりに苦しめられている人も多い。「~~で生計を立てていく」「~~はおかしい」など、自分の考えやこだわりは自然と持つものであるので難しいところである。しかし、本当は自分に疲れがたまっているのにも関わらず、そのこだわりに縛り付けられてしまうと(また、その物事を成就する自分が「かっこいい」と思ってしまうものである。自分の理想像である。しかし、これを持たない生もまたそれはそれでつまらない。このバランス感覚が難しい)、知らず知らずのうちに自分がさらに疲弊してしまうことにつながりかねない。

 

岡田斗司夫か誰かが「人はみなそれぞれ、何かのオタクになるべきだ」というようなことを言っていた気がする。(昔の嘉門達夫の曲でも「これが私の彼氏」「へー。何オタク?」「いらんこと言わんでええねん~」といったネタがあった気がする)「べき論」はそれはそれでまた人を苦しめてしまう可能性があるので、そこはどうかと思うが、意外と、この意見はいいと思う。「オタク」であることには、生を彩る効用があるのではないか。

 

思うに、こだわりとというのは、手のひらでそっと持つぐらいがちょうどいいと思う。それを誰かに押し付けたり、自分自身がそれに囚われてしまい苦しめてしまうのであれば、本末転倒である。

 

自分自身に無理をしないこだわりを持っていきたい。

ポケポケをやって思ったこと

ポケモンカードのアプリが発売された。

個人的にプレイしてみて感じたことを書いていこうと思う。

 

まず、アプリだからだとは思うが、もしこれが現行のポケモンカードのルールであれば、随分様変わりしたなとは思う。

昔は、相手のバトルカードを倒した時には、自分のデッキの前のサイドカード(大体4枚か6枚)から1枚引け、これが全部なくなった時点で、なくなった人の勝ちだった。

アプリでは3ポイント先取で、サイドカードがないため相手のバトルカードを倒してもそれによって手札が増えることはない。

 

ベンチカードも5枚ではなく3枚まで。エネルギーカードもなく(無色2個)、毎ターン1個のエネルギーをつけることができる。

 

それにしても、よくできたゲームだなと思い、むしろよく出来すぎていると思う。初心者バトルでもそうだが、こちらがexカードを出せば相手もexカードを出してくるあたり、バトルのマッチングの段階から絶妙な調整がAIによって設定されていると思う。

 

思うに、ポナンザなどに代表される将棋AIソフトのように、形勢判断のソフトがこのゲームには入っているのではないだろうか。ポケポケという考察ゲームでは、先手必勝か後手必勝か、はたまたゲームごとにそれが決定されるのかはわからないが、現実(リアル)ではなくゲーム上のことである以上、制作者の思惑が入ってくることは仕方がない。慈善事業ではない限り、仕事(商売)としてゲームが開発されているからである。

 

そのため、まず、「強いカードを持ってる奴がずっと勝ち続ける」ようにはなっていないように感じる。バトルをしていて思ったが、exカードがなかなか引けず、グダグダな試合展開(山札がなくなるほど)になるときは、不思議なことに相手側もexカードを出してこない。こちらがexカード(例えばウインディexなど進化系のもの)を出した途端に、相手側もミュウツーピカチュウexを出してくるように感じる。

 

もしこの感覚が当たっているならば、大体、相手の「カスミ」カードで大体コインが出るかどうかも感覚的にわかるようになってくる。もちろん例外はあれど、こちらが最適解の手順を追っていると、「このカスミは表は出ないな」とか、「相手は進化カードを持っているな」とか、感覚的にわかるようになってくる節は感じている(気のせいかもしれないが)

 

上級者になればなるほどゲームは複雑なっていくが、個人的には(プレイヤーが気付くかどうかは別として(本当は、自分はこのゲームは先手必勝じゃないかと思っている))ダメージ計算も、ぴったりになるように勝敗が決まるものだと持っている。

 

はっきり言って、与ダメージ、カードのHP、タイプ相性、これはもう「ゲームバランスいいよね」のレベルじゃない。はっきり言って人間業ではない。

 

新規カードを1枚作るにしても、現行の環境を考えないとゲームバランスが崩れてしまう以上、相当な計算が必要であるが、発表してしまったあとでは修正が効きづらい。

何かしら企画段階で、相当な計算が行われていることは当然だろうと思う。

 

話は戻るが、もし形勢判断AIが入っているとすれば、自分の感覚では、自分が「最適解」に近い手を打っている時ほど、相手のカスミはコインが出ない。この「カスミ」のカードで(ある程度の順番が来ている段階では)、自分は勝手に形勢判断をしている。もし「カスミ」で、相手のコインが「表7枚」などが出るようであれば、自分が気付いていない時でも、知らず知らずのうちに、悪手を放っているとみて間違いないと考えている。

 

自分が負けたときに「どこが悪かったのか」を考えるのだが、以下、この記事を書いている時点で気づいたことを書いておく。どれも言われなくてもわかっている基本的な事だと思う。

 

・ベンチに空きがあり、手札にたねポケモンがある時に出していなかったから、負ける試合がある。

→炎、水デッキで、「ケンタロス」「ラッキー」「カビゴン」などのノーマルカードを入れている時、逃げるにもコストがかかるため、「これはベンチに出さなくてもいっか。もう使わんやろ」と思っていたら、負ける試合がある。主に相手が「ナツメ」カードを持っていた時など。

 

・ゲームでは知らないが、現実では、カードを使う順番は「モンスターボール」→「オーキド博士

 →「オーキド博士」で「たねポケモン」を引くと1枚分損になるため。

 

・相手がカイリューデッキの時は、「りゅうせいぐん(一回での総与ダメージ200)」に備えるために、ベンチは埋める。また、ベンチには高HPのポケモンをそろえる。

 

・エネルギーをつける順番は、手順の中で最後から2番目(最後は攻撃)

→例えば、エネルギーを自分の手番が来た時に初めにつけて、「オーキド博士」や「モンスターボール」で引いたたねポケモンにつけたほうがいい時があった、というのを防ぐため。

(追記)また、エネルギーのつける順番を最後にしなかったために、敗ける試合がある。なので、これは絶対事項。

 

・形勢判断AIは、早く試合を決着させる者に優しい(体感)

 

・相手への星の取らせ方(3ポイント)は、「通常ポケモン→通常ポケモン→exポケモン

→状況にもよるが、いきなりexカードで3タテを狙うとかは、あまりしない方がいい。大体初心者のピカチュウexやミュウツーexデッキは、このパターンでやられる。exカードを出すのは、理想では相手に1ポイントでも「取られて」から。まだポイントを取られていない状況で(つまり1体目のポケモンで)exカードは出さない。しかし、たとえば「ピカチュウex→ピカチュウex」の2体で速攻戦を戦う方針もある。しかし、基本的には、ゲームマスター(形勢判断AI)に手札を引く順番やコインの裏表をコントロールされている以上(純粋な「運」だと証明するものが希薄であり、むしろお互いに管理されている可能性がある以上)、一番初めに手札を引き、相手のデッキのタイプを見た時点で、自分が戦うカード(バトルフィールドに出すカード)は(「逃げる要員」も含めて)「3枚以上」であることが望ましい。

(追記)「実力伯仲」で「いい勝負」ができることが組まれているのであれば、exポケモンを出しても、そのexポケモンが行動できる頃には、相手もexポケモンを1体ぐらいは拵えているものである。そうすると、先に出している分、被ダメージを受けている可能性が高く、その分損になる。もしex対exの勝負で負けたならば、あとは(カイリューなどの特別なポケモンではない限り)そのexポケモンより弱い通常ポケモンを出して、相手のexポケモンにシバかれるだけ。そうであるならば、exポケモンは後手にした方が良い。

→逆に言えば、相手に早めにexポケモンを出させ、通常ポケモンでなるべく削り、最後にこちらの伝家の宝刀(ex)を切り出すことによってシバいていくのが一つのいい方法である。

 

・たねポケモンカードは7枚以上デッキに入れても意味がない。

 →星取表が3ポイント先取で、場に出せるカードがバトル+ベンチ合わせて4枚である以上、たねポケモンは6枚まで。それ以上入れるとデッキ構成としては非効率。(ここは現時点の体感で、奥が深くなるとタイプ対策としては有効なのかもしれないが)

 

・中盤から終盤にかけてのダメージ計算は、「一番自分に都合の悪い展開」で行うこと。

→たとえば、相手が「キズぐすり」2枚持っている。「ナツメ」を持っていて、自分が今目の前にあるバトルカードを倒しても、ベンチにあるカードを引っ張り出される。「エリカ」を持っている。「サカキ」を持っている。等。ただし、これまでの試合展開として、自分が最適解の手順を示していれば、「ピッタリ」相手は詰むようになっているな、ということを本当によく感じる。

 たとえば、ダメージ計算において、相手のHPが残り10なのを、攻撃力40でシバいたり、120で攻撃して勝つことは少ない。どちらかというと、本当に最善を重ねたときは、本当に「うまくできてるなぁ」と感心するぐらい、残り120だったら120、90だったら攻撃力90の攻撃で、ぴったり終了する。誤差があっても、10くらい。そういう「ぴったり」の時は、「この試合で自分が打った手は最善手だったんだな」と思うようにしている。

 

・個人的にやめてほしい事として、先攻はエネルギーの他に、攻撃もなしにしてほしい。(フリーザーex出されて、カスミ使われて、こちらのターンが来る前に終わったことがあるため。)あれ、でもこっちの手札はたねポケモン1枚しかなくて、全部出したよな?というときは、「あれ?これAI入ってないんかな」とちょっと疑いそうになるため。いくら何でも先手必勝過ぎる。

 

制作者の意図としては、当たり前だが、どれか一番最強のデッキみたいなものは作りたくないわけで、初心者が簡単に飽きるようなゲームでも遊んでくれなくなるから困る。だから、調整が入るわけではある。要するに「実力が似た者同士」で、「いい勝負」「かなりギリギリのゲーム」になるように組まれているように思う。よっぽど相手が悪手を放った時には「3-0」などのゲームもあるが、基本的にどちらのプレイヤーも限りなく最善手に近い手を放っていれば「3-2」で決着がつくようなゲームになっている気がする。

もっといえば、本当の本当は先攻優位なゲームのような気がする。しかし、実際はゲーム上でも、一番最初に手札を引いた瞬間から、形勢判断の(ゲームマスターの)裏の裏を読み取ることは難しい(例えば、相手のデッキに「水」や「雷」マークがついていても、厳密に「フリーザー」「スターミ―」(のような水デッキ)か「ピカチュウ」(雷デッキ)か、「カイリュー」(水も電気も必要)かどうかを見極めることはできない。)

そこで、一番初めにバトルカードとして「ケンタロス」などの「ノーマルポケモン」を出すのか、はたまた「タイプのついているポケモン」を出すのか迷う訳である。

 しかし、ゲームの裏では、初めから最適手の組み合わせを放った時には、なんとなく、先攻優位のような気がする。負けが込んでいる時にも、自分が「先攻」になるような場合がなんとなく体感として多い気がする。(それでも個人的には相手の行動に対して自分の最適解を探る後攻の方が好き)

 ときどきマッチングの時のタイプ相性だけで投げる人もいるが、これもマッチングの段階である程度AIなどによって実力均衡の者がマッチングするような気がしていて、あとから考えれば「どうしようもない圧倒的な力の差」みたいなものを感じる試合はほとんどなく、「相性悪いけど、あとから考えたら手順さえ逆にしていれば勝ててたな」というような、そういう、現実世界には起こり得ないような、神懸かり的な「ゲームバランス」で、限りなく「いい勝負」が出来るように仕組まれているゲームだと、現環境では感じている。

 

(追記)

・自分は使われて思ったが、「なるべく早い試合展開」「最適解の出し合い」が前提としてこのゲームが行われているならば、「レッドカード」の使い方は、「後攻」で、かつ、「1ターン目」であることのように思う。個人的には、中盤以降、ある程度の形勢差がついた後にレッドカードを使われても、自分が最適解を指していれば、引いた3枚の中にも「手札から抜かれた、次使おうと思っていた」カードも戻ってくる気がする。逆に、先攻は色々と決めて始め場にカードを出すので(たねポケモンは全部出すとそれが敗因になる試合がある=つまり、先攻はなるべく手札を使い切ったらいい、というわけではない)、後攻は2ターン目(自分のはじめの番)で使うのが最適解のような気がする。

 

とにかく、現環境においては、いかに場を「早く」整えるか、ということである。ミュウツーだったらミュウツーフリーザーならフリーザー、ウインディならウインディのexはもちろん、それ以外に通常ポケモンで戦えるポケモンを2体用意する。ギャロップキュウコンならそれでよし、ゲッコウガサーナイトであればそれでよし、あとは「にげる」を駆使してやっていけばよい。しかしそのためには、高エネルギーが必要でターン数がかかる。それをいかに早く補うか。そのために、「ファイヤーex」があり「カスミ」があり、「サーナイト」があり「レアコイルマチス」があり、「ドレディア」がいる。といったところではないだろうか。

 

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雑感

思ってみれば、その本質を押さえることというのは大切なことだと思う。

 

消費税の増税一つとっても、(財政学には疎いが)「北欧諸国は消費税が20%だ!北欧諸国を見倣おう!」と、都合のいい時だけ、都合のいい理由付けのために引き合いに出される北欧諸国であるが、我々は、北欧諸国の一体何を知っているというのか。

 

気候が違う。気候が違えば生活態度・習慣もおのずから違ってくる。食生活や文化も違う、寿命も異なってくる。人口ピラミッドはどうか、人口動態は 公的年金の仕組み(システム)は? こういった国の現状や時代背景を無視したまま、ただ単純に「北欧諸国は消費税が20%!社会保障も充実している!」と言っても、それがたとえ「消費税が10%から15%。15%から20%」に上がったとて、本質的な「集めた税金を何に使うのか」「実際どう使われたのか」が明確でない限り、ただの「形だけ真似た」猿真似に過ぎない。北欧諸国に見倣って、消費税が20%になっても、「北欧諸国と同じ20%になったけど生活費や年金は少なくて苦しいね」といったことになるのが目に見えているように思う。人それぞれ成功パターンや性質や気質などが違うのに、形だけその人と同じように振舞っても意味がないのと同様に、国にもその国のやり方と事情がある。根本の仕組みや考え方が違うのに、形だけ消費税を増税だけする、というのは、その本質が「ただ単にお金を集める名目」とだけ取られても仕方がないのではないか。

 

本質の一つとして「なんのために」といったことが考えられる。政府はその名目として「社会保障に充てる」と言われてはいるが、その使途は市民の実感には乏しいのではないか。介護士などの給料という表面上だけからも見られる職業間格差、実際に国に徴収された税金の使途の正確な使い道は、どれだけ開示され、国民は把握しているのか。せいぜい「年金に〇〇億円。医療に〇〇億円使いました」といった公表が出されるだけで、それが嘘か本当かもわからない。結局、確かにここにこれだけ使いました。という使途はブラックボックスの中に入れられ、ある日急に変更案や法案が国会に出される、といったニュースをただただ受動的に受け取ることしかできない現状。これでは根本的なところで将来への不安や、現状への不満を払拭することは難しいと思う。

 

勉強不足なのは否めないが、実際スウェーデンの年金制度では、日本の賦課方式(世代間負担、現役世代が年金受給者の年金を納付する)とは違い、それに加えて「積立方式」が実施されているらしい。そこでは、個人は「自分が収めた年金の分だけ受給権が発生する」ため、自分たちがただただ自分のためではなく老人のために年金を納め、「支えている」といったものもなく、また、将来いくらもらえるのか、急に減額されることはないのかといった不安もない。こういった「公的年金」の仕組みひとつとっても違うのに、ただただ形式的に、表面上の「消費税20%」だけを引き合いに出して、「北欧諸国を見倣おう!」と喧伝するのは詐欺ではないだろうか? 表面上の形だけの猿真似をしても意味がない。根本的に真似をするのは、例えばその個人の年金を算出する計算式であったり、「賦課方式」「積立方式」といった(スウェーデンでも積立方式は一部のみなし制度である)根本的なところ、仕組みやシステムといった本質的な部分ではないか。これは上にも書いた通り個人間の人間観としてもそうだが、国家間においても、その仕組みや考え方、事情、現状が違うのに、消費税の値上げの時に(何のための増税か、その背景を大っぴらにせずに)、口実として北欧諸国といったことを引き合いにだすのは非常に卑怯に感じる。

 

しかしこういったところで、実質消費税といったものの増税は強行されるときには強行される、強制的なものであることに変わりはない。だからこそ人々は政治に関心を持つことは大切なのであるが(この国から出ていくのが前提であれば話は別だが。この国に住んでいる限り)、上級国民、社会的強者は、大衆から政治への関心を無関心にすることに、今から思えば数年前からそう仕向けるようにしてきている節があるように思う。オイシイ話は内々で回し(これはどこでもそうであるが)、甘い汁を合法的に吸う方法や仕組みは決して一般国民には開示せず、情報や手口は秘密裏秘密裏に行うといったことが事実上そうなのであろうが、これが個人的なレベル(例えば商売)であればまだしも、国民が毎日労働し、その報酬から名目上「税金」と称して一部を吸い上下、天引きし、文字通り「身体が資本」であるところの労働者から得た「血税」で行われている行為であるから、腹が立つのではないか。

 

個人的な観測範囲でしかないが、「日本は人口減少だが、韓国を含めて先進国は結構みんな人口減少している」といった、いかにも貧乏くさい、貧乏人の発想も見られる。周囲と比較して、周りはみんな落ちているから大丈夫、といったところだろうか。「先進国が皆人口減少している」ということと「人口減少は問題ない」といったことは全くの別問題であり、古代エジプト古代ローマを見ても、人口が減少して栄えた国はない。「日本には四季があるから…」というが、四季があることによって人口問題が解消されるわけではない。おそらく、こういった言い分は、「人口減少=日本の悪いところ」と捉え、「でも日本の良いところ=四季がある」といった、「日本の良いところ/悪いところ」といったところを焦点にして話をしているのだろうが、上に書いた年金問題云々、そうではなくて、人口減少のその本質的なところ、根本的なところは「人口減少=国力の低下」である。(では、国力とは何か?といったことも話になってくるのだが)こう言った論点のすり替えが(意図的かどうかはわからないが)往々にして行われ、本質的なところが議論されないままのような気がする。

 

https://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~tetsuta/jeps/no11/yamada.pdf

 

 

https://www.nensoken.or.jp/wp-content/uploads/2022Finland.pdf