たま 『学習』について

好きな曲について書こうと思う。

 

たま。「イカ天」の出演を機に爆発的に人気を博したバンドである。

 

良く知られているのは『さよなら人類』だと思う。しかし今回はたまで俺が一番好きな曲『学習』について書いていきたいと思う。

 

なぜこの曲が好きなのか。結論から言うと、軽い音楽でありながら、歌詞が深いから。である。では、どのように歌詞が深いのか。

 

まずはこちらをご覧いただきたい。

 

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あーもう わかんないやー

 

今になってあの時のあの人の気持ちがわかるから

あとになって今の君の気持ちをわかることにするよ

 

君を許してあげるよ

君を許してあげるよ

君を許してあげるよ

 

いつまでもずっと生きていても死んじゃってからも

僕にはわからないことまだまだまだまだある気がするよ

 

君を許してあげるよ 今すぐに

君を許してあげるよ とりあえず

君を許してあげるよ 僕のために

 

 

 

君を許してあげるよ 今すぐに

君を許してあげるよ  

だなんて 偉そうなことを言っているこの僕をゆるしてね

 

今になってあの時のあの人の気持ちがわかるから

あとになって今の君の気持ちをわかることにするよ

 

 

――

 

 

ものすごく深い。当時これを聞いたのは大学生の頃だったと思う。ものすごく、この曲の深さに衝撃を受けた。

 

まず初めにこの曲の魅力の一つは「許してあげるよ」という歌詞からも見て取れる、「エゴの強さ、傲慢さ」である。

 

歌詞を全体的にみてわかるように、全部の言葉遣いが、基本的に「上から目線」的な、主観的な内容になっている。「許してあげるよ(=許したるわ)」「わかることにするよ(=わかることにするわ)」と聞こえなくもない、ここからは独断になるが、自分にはそう聞こえている。

 

魅力の二つ目は、独特な観点、表現である。具体的に言うと、「許す」ということを「現在」の視点で捉えていない。正確に言えば、「現在」にいる私が、「過去」からの経験を踏まえて「未来」に投げ入れている表現が好きなのである。

 

普通、「許す」というのは、「現在」の視点で語られがちである。離婚、不倫問題、喧嘩、全て、長く持っても、3日や1週間、1か月、ということが多いのではないだろうか。いずれにせよ許していない、(ここでは恋愛としておこう)相手を許せていない間というのは、喧嘩中である。その間には「許す/許せない」というせめぎあいから心がやきもき、不安定になる。

 

しかし、知久さんのこの歌詞では「今の僕では到底許せないかもしれない。だけど、未来の僕だったら、もしかしたら、許せるかもしれない。だって、今の僕は、あの時の君の気持ちがわかるから。だから、今の君を許せるかどうかは、未来の僕に任せることにするよ。だから、今は、今の僕は、今の君を許せないけど、とりあえず、今は許すことにするよ」

 

 

イメージ図

 

ものすごく深く、かつ、ある意味では「オトナ」ではないだろうか。通常、「許す/許さない」の結論は、短期間で出されることが多い。しかし、知久さんの考え方によれば、かなり長期スパンで心の中で本当は保留の状態でありながらも、現状では許す、ということなのである。こうしておけば、とりあえず現状は関係を保つことができるだろう(あるいは、別れた後、壊れた後なのかもしれないが)

 

しかし、こういう考え方もできると思う。つまり、ここにもかなりのエゴがある。

つまり、あくまでは自分は「許される側」ではなく、「許す側」であるということ。そして、そもそも「許す」という行為の中には、こういったエゴの強さ、傲慢さの他にも、狡猾さが潜んでいるのである。

 

言うまでもなく、ここで言われている「許す」という行為は、相手のためではない。自分のためである。それが、知久さんにはわかっているのである。

どういうことか。

上に書いた通り、「関係性を壊したくない」というのであれば、それも己の欲望である。つまり、自分が関係性を保ちたいがゆえに、「とりあえず相手を許す行為を取る」ということ。

 

そして、「許す」という行為は、一対一の関係であれ、第三者がいる関係であれ、駆け引きに使える行為だということである。

例えば、一対一の関係だとしよう。何か喧嘩があった時、許す、許さないの問題は当然に出てくるのであるが、明らかに相手に非がある行為であった時、自らが率先して「許す」行為をとると、どうなるだろうか。

相手が良識的な判断の持ち主であれば、もちろん自分が悪いことをしたのはわかっているはずである。そこに、突然相手が許すという行為を出してきた。相手はどう思うだろうか。やましさ、後悔、後ろめたさ。いっそ罵ってくれたら、逆恨みでも出来ようなものを(そもそも自分が悪いのであるが)、あっさり許されたがゆえに生まれる後ろめたさ。もちろんこの場合、許している側である人は、「自分のために相手を許している」のである。

 

これを第三者が見ていた場合どうだろう。許す側(Aさんとしよう)が謝罪している側(Bさんとしよう)を、Cさんという第三者が見ている。Aさんがいつまでも許さないとすると、第三者としては、Aさんがみっともない、大人げない人、と映るのではないだろうか。そればかりではないが、そういう場面もあるはずである。もちろんそれは、どんなにBさんに非があり、また、Bさんが自ら謝罪をしていても、の話である。しかし、Aさんの腹の虫は収まってはいない。そういう状況である。しかし、である。しかしそのような場合であっても、第三者は(第三者こその無関係なさからにそう言えるのでもあるが)、Aさんはいつまでも怒ってみっともない、大人気ない。と言う場合がある。

この時、Aさんが早々に「許す」という行為をとればどうだろう。その行為により、Aさんは器の大きい人、と映るかもしれない。その二人の様子を見ていた第三者にはそう映るかもしれない。この場合であっても、「許す」という行為の結果は、Aさんが、Bさんのよりも「許してあげた心の広い人」として、傍からみた状況下では、Bさんよりも優位に立てる、ということなのである。いつまでも許せない人と、相手を許せる人とでは許せる人の方が大きい人間、器の大きい人間とされるのは、よくある話である。

 

しかし、「許す」という行為は、そう単純ではない。そこには狡猾さがある。「許す」という行為がもたらす効能。許すという行為は、器の大きい人間がする行為でもなんでもなく、むしろそういう自分が「優位」に立てること(を理解していること)も含めてみれば、その行為は狡猾さがある行為である。

 

そして、知久さんはそれをわかっている。だからこそ「君を許してあげるよ」のあとに「僕のために」という歌詞が書けるのだと思う。許すという行為の背後に潜む狡猾さを知っているからこそ、その行為自体が実は相手のためでもその場を収めるためでもなんでもなく、全て、自分のための行動であるということを。そのことをわかっているからこそ書ける歌詞だと思う。そして、エゴが強いからこそ「偉そうなこと言ってるこの僕を 許してね」という歌詞が書けるのである。ここに、とても深さを感じる。

 

もちろん、未来の自分には、今の君を理解する能力がついているかもしれない。しかし、今の僕には到底君を許すことができない。だから、未来の僕に解答を預けるために、僕はとりあえず、君を許すことにする。こんな僕を許してほしい。僕に『猶予』が欲しい。

 

「猶予が欲しい」のは誰か。自分である。そのために許すのは誰か。自分である。そして、そのために許してほしいのは誰か。自分である。この曲は、我の強い曲なのである。

 

許すという行為は、一見優しい行為に見える。しかし、許すという行為には、上にも書いた通り、二面性がある。一見、許す人は、優しく、強く、おおらかで、器の大きい人に見える。だが、その背後には、エゴのため、自分のためという傲慢さが潜んでいるあるのである。

 

この歌詞は、それを巧みに言い表している素晴らしい歌詞だと思う。たまの曲には、音調が「みんなのうた」で流れるような軽いものだとしても、歌詞を読んでみると、深いものが読み取れるものがある。俺は、知久さんは、頭のいい人だと思う。

ただ単に、頭のねじが外れたようなトンチンカンな曲を作り、歌っているわけではない。

 

そうでないと、この歌詞は書けないし、この曲は作れない。この歌詞をよく見ればわかるが、殆どが小学生でもわかる単語で書かれている。難しい感じは「許」一文字だけ。それながら、これだけのことを読み取ることができる。こういう詞が書けるのは、凄いことだと思う。

 

『あーあー もう わかんないや』曲の冒頭。俺馬鹿だからわかんないや。馬鹿でごめんね。許してね。だけど、そのあとに続く歌詞。「僕は君を許してあげるよ 僕のために」。全てを分かっているからこそ、俯瞰的に書かれているこの歌詞は、頭のいい人でなければ書けないと思う。

 

そして、この歌詞には、かつて許せなかった自分への後悔、贖罪、残滓が含まれているような気もする。

 

あの人があの時言っていたことが、今になってわかる。そういうことは、往々にしてあるだろう。この歌詞は、とても分かりやすい言葉で、複雑なことを表している。だからこの歌詞が好きなのである。上につらつらと書いた「許す」という二面性の他にも、この歌詞には時間性がある。とても良い歌詞、そしていい曲だと思う。深い。そしてこのエゴの強さが魅力でもある。

 

あえてこの歌詞から教訓を得るとするならば、「許すかどうかは、「今」だけで判断をしないこと。する必要はない」ということだろう。なぜなら、『今』の自分には許せなくとも、『未来』の自分には、許せる可能性があるのだから。

 

終わり。