絶頂へ至る道

「ただ避けがたい疲労だけが、私たちを道から逸らせる。私たちは不快な困難を前にして立ち止まる。絶頂へと向かう各種の道には障害があるのだ。そして、単に力への競合が緊張に満ちているというだけではなくて、しばしばそれは陰謀の沼地の泥に嵌まり込む。誤算、不確実性、力などは空しいものだという感情、第一の頂上の更に上のほうの至高の高みを思い描く、私たちの保持しているこの想像の能力、それらすべてが、迷宮につきものの混乱状態にあずかることになる。私たちには、実は、絶頂がここにあるとかあそこにあるとか言うことはできない。(絶頂はある意味では決して至りつくことができないものだ。)絶頂に到達しようという欲望――あるいは必然性――によって狂気に落ちたひとりの暗鬱な男は、孤独のなかで、当代の、彼よりも高い所に位置している諸人物より、ずっと近くまでその絶頂に近づく。しばしば狂気が、不安が、犯罪が、その接近を禁ずる。しかし、何事も自明ではありえない。いったい誰に、狂気や不安や犯罪は絶頂から遠ざけるものだという嘘を、卑劣な言辞を、弄することができるだろう。絶頂への到達をめぐるこのはなはだしい不確実性は、その本質からして謙譲・卑下を正当化するものではあるだろうが、謙譲・卑下とは、しばしば、確からしく見えた迂回路にすぎない。」

 

――ジョルジュ・バタイユ『内的体験』

思うことなど

〇仮面を被っていると他人にバッチリ確信を持たれている時点で、仮面は成功を成していない。見ている。というのは二義的である。

 

〇子供は無邪気だから可愛い。そう、邪気が「無い」ところが子供の良いところである。大人は邪気が、悪意がありすぎる。

 

〇最近は、人の主観が一つではない。主観は複数持てるのではないか、ということと、人の無意識に興味が少しある。人の無意識がその人の幸福につながっているのではないか。

 

〇「~ながら」ということ。多面性。「~でありながら」。「~と同時に」。

 

〇「肉体を持つことは孤立を生み、孤立は相違を生み、相違は比較を生み、比較は不安を生み、不安は不思議な思いを生み、不思議な思いは賛嘆を生む」トマス・マン『すげかえられた首』